予選から見てこそ、オリンピックは真に楽しめる

平昌五輪を見ている。
全部見られたらいいけど、時間は限られてるので、種目を選んでみている。

アルペン競技の種目
スノーボードクロス、ハーフパイプ
フィギュアスケート

私が見る上でこだわるのは、予選が見られること。もしくは参加者が全員参加して見られること。
ダイジェストではダメだ。

そんなのは、わたしにとってオリンピックではない。
そう心に刻み込まれたオリンピックがある。

長野オリンピックのアルペン競技での、ある出来事をみたからだ。

その時、きっとヘルマン・マイヤー選手が見たくてアルペンを見ていたのだ思う。それまでその種目を意識したことすらなかった。
(滑降なのか、回転系だったのかはもう覚えていない。)

何人もの選手が滑って、時には激しい転倒があって、ドキドキしてみていた。

もうどの国の選手かも覚えていない。
ただ、冬のオリンピックに珍しい国だったことはぼんやり覚えている。

その選手は旗門を通り過ぎてしまった。
結構な急斜面だった。

あ、やっぱりダメなんだ、、。

と思った矢先に、その選手は斜面を登り始めた。
スキー板を斜面に垂直に保ちながら、1歩、1歩登っていって、通り過ぎた旗門まで戻ってやり直した。

解説が次の旗門を通過していなければ、やり直しは可能だと教えてくれた。

私はその選手に最後まで釘付けだった。
やり直しているから、タイムはトップからは絶望的なほど離れていた。

でも滑りきったその選手の、誇らしげな様子に胸を打たれたことは、はっきりと覚えている。

その試合はやり直す選手が他にも何人かいて、みんな無事にゴールできたことを、とても喜んでいた。
そしてその度にゴールでは温かな拍手と声援が送られていた。

そうか、これがオリンピックなのか!!

あの時、心に刻まれた。

参加することに意義がある

それは真実だと。

ニュースやダイジェストでトップレベルの選手や、自国の選手の結果を知ってるだけの、オリンピックは、真のオリンピックではないのだ。
メダルの数とか、色とか、そんな情報だけじゃダメなんだ!

だからこそ、今回の平昌五輪で自分が見ようと決めた競技はできる限り全部見るときめた。
放映されないものもあったし、ネットで忠敬されていても仕事で見られないなど、物理的に無理なものもあった。

でも、きっとニュースやダイジェストでは見られない選手をたくさん見ることが出来た。

フィギュアスケート男子のショートプログラムは、第2グループにでたマレーシアのジージエ選手はステキだった。表現力が私の好きな選手だった。

残念ながらショートプログラムで彼のオリンピックは終わってしまったけれど、すばらしかった。

彼がオリンピックにでることで、彼のあとに続く選手が生まれることが、わかる。
そういう選手を知ることができる。

オリンピックにでることは、自分の国に道を切り開くことなのだ。

メダルを取ることは言うまでもなく、すばらしい事だと思う。
そこに切磋琢磨する輝きは、圧倒させられる。

メダルの輝きが、太陽のように眩しくて圧倒するものだとしたら、
わたしが長野オリンピックでみたアルペンの選手や、フィギュアにでたジージエ選手は北極星みたいな輝きだと思う。
未来の選手の道標になる光だ。

オリンピックにはそういう側面がある。
そういうことも忘れずにいたい。

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罪悪感なくやる

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。

やりたいことがたくさんあります。
やりたくないこともたくさんあります。
やらなくちゃいけないこともたくさんあります。

人生における割合に例えるなら、
1:4:5ぐらいかな。

しっかりしてパーフェクト人間でなければ価値がないと思っていたので、9割近く自分の人生を望んでないことに捧げていました。

でも、今日改めてたくさん自分と向き合う機会があり、思いました。

しっかりもの、まぁ、いいや。
パーフェクト、無理無理。
それで誰かに嫌われても仕方ないやーって。
誰かを安心させるために、いい子をやるのはもうやめよーって。
100%無条件に相手に譲るのはやめよう。
交渉はしてみよう。

私は好きなことしてもいいのです。
それだけ打ち込める好きな物もあったはずだし、今からいっぱいやってあげようと思った。
小さい頃に好きなことはほとんどやらせてもらえず、いや、はっきりいって24で家を出るまで、常に親の法律で生きてきたから、親にとって100点満点でいい子で応えてきたし。

あの時できなくて、やりたかったことやれてる自分をたくさん、物語として紡いだから。
それをやっていい。
その時にこうして特化させた文章好きを極めてもいい。

私の心は自由なのだから。

今まではその好きなことや自由すら、
続けられないとか、
やらなくちゃいけないことがあるのに、やれないとか、
実は好きじゃなかったかもしれないと気づいても、謎の罪悪感でやめられなかったり。

いいわ、もう。
やりましょ、やりたいこと。
毎日続かなくてもいいわー、やりたいこと。

そんな気持ちになりました。

この1ヶ月はやりたいことだけやろうと思います。

今日はそういうことにきづいたアニバーサリーなので、カレンダーに登録しておこう。
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小さなストレス

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。

時間がありません。

ショートスリーパーではなく、8時間ぐらい寝ないと元気出ません。
今、平均6時間ぐらい。

睡眠時間削ってもやりたいことが終わらない。
ブログ、オリンピック、家事、読書などなど。

音声配信とかもやりたいし、ブログ以外にも書きたいことあるし、毎日やれないことと、やらなきゃいけないことを考えると憂鬱。

何かを捨てろということなのか。

全部じゃダメなのか?

時間の使い方なのか?

小さなストレスを今日も抱えて眠る。

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怒ることが少なくなったら、書くことがなくなってしまった

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。

最近自分の感情と向き合うようになって、怒りが少なくなってきました。
眠れないほどの怒りとか、理解できないほど許せない人の言動とかがあんまりない。

そのせいか、ブログに書くことがなくなってしまったんです。

そもそも私は怒りの人だった

ホームページの日記ページ時代から数えて、4代目になるこのブログ。
日常を書いているように見えて、根底にあるのは怒り。

大学時代
「バイト先にこんなひどいことをする客がいる!」
「日本の政治ってひどくない?」
「就職面接でこんなにぞんざいな扱いをうけた!」

社会人時代
「なんで・・・延滞料金がありますっていっただけで殺すぞっていわれなきゃならないんだ!」
「今日・・・なんかカウンターをバンバンけって脅してきたお客さんがいた」
「お局社員に今日も嫌味を言われた・・・」
「メモをとれない研修生がきた!!」
「新店長がえこひいきしまくって、店のチームワークががたがたなんだけど!!」

今までいったい何記事書いているかわからないけど、たぶん8割はこういう記事で埋まっていると思う。
映画を見たとか、特撮が好きだとか、舞台を見に行ったとか、そういうことも書いてはいる。
でも圧倒的に私が筆がのって、書けるのはネガティブなこと。
怒り、悲しみ、さらには憎しみ。

最近ポジティブになってきた

感情に向き合うワークに取り組んでいます。
怒りの根底にあるのはいったい何の感情なのか?
そういうことをつきつめて考える。
そうなると、あんまり怒りが持続しないんですね。

昔は「今日いいことあったっけ?」って思っていたけど、
今は「今日ってなんか悪いことあったっけ?心穏やかに過ごせた気がするから、ま、いっか!」です。

私を駆り立てるパワーの源がなくなってしまったんですね。
ブログ書こうっていう気力もぱったりと0に。

書こうかなぁ~とは思うけど、ポジティブなことは指が文章を書いていかない。
文章を書きたいという欲求はあるのに、駆り立てる怒りがない。

自分がポジティブであると信じたくないビリーフ?!

ポジティブだわ~とはぼんやり思っていて、いいことなんだけど、
どこかでそれを「そんなん私らしくない!」って抵抗しているビリーフがあるのかも。

ポジティブだって思っちゃいけない
幸せだって思っちゃいけない

みたいな。

私が私に「お前はネガティブなところにいるのがお似合いなの!」って言ってると思うと泣ける話だ。
でも、そういう入り口まで進んできたって思えばいいのかもしれないですね。

雪がとけたら春になる。
春には花が咲く。
今はただ、雪の下で待っている。

「正義の怒り」が存在しないと気づいたら楽になった

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。
最近自分の感情と向き合う取り組みをしています。

そのおかげで、負の感情に振り回されることが少なくなりました。
何よりも小さいころから持ち続けてきた、怒りの感情との付き合い方がわかってきたのがうれしい。
ずっと自分の中に「正義の怒り」みたいなものが燃え続けていました。
ブログもそういう怒りを発散する場所であったような気がします。
いつも何かに怒っていたし、それを「正義の怒り」と信じて疑わないものもあった。
えこひいきする店長とか、セクハラ発言をしてくる上司とか、非常識なお客さんとか。
そういうものに対する怒りを、パワーに変えて生きていくのが私だと信じて疑わなかった。

でも・・・その「正義の怒り」の炎で自分では抑えきれないぐらい燃え上って、どんどん生きていくのがつらくなった。
常に怒りが真ん中に居座っていて、楽しいとか幸せとか、そういう感情をどんどん感じなくなった。
怒りがつらいので、怒りをかんじないようにしたら、全ての感情がに対して無感情になって、毎日生きる意味がよくわからなくなった。

それが、感情と向きあいつづけたら、自分が見えてきた気がします。

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「全部わかってる」「全部見えてる」に対する心のざわつきから考える自分の生き方

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。

ストレングスファインダーというものがあります。
人間を34の強みで分類するというものです。
以前ワークショップにも参加して、人にはそれぞれ得意な分野があるのだ、ということを学びました。

ワークショップの記事はこちら▼

最近ふと、そのことを思い出しました。
自分の人生において、心をざわつかせる特定の言葉がある。
それがストレングスファインダーの特性に関係あるのかなと。
改めて、自分の強みや取扱説明を考えつつ、どうやって生きていこうかを書いてみようと思う。

私の取扱説明書的にストレングスファインダーの上位5つを書いてみる

私のストレングスファインダーの上位5つは以下の通り。

1、内省
2、信念
3、調和性
4、慎重さ
5、適応性

平たく言うとこんな感じなのかなぁ~と。

・常に何かを考え続けている
・周りを優先し、和をとる。
・今に焦点をあてて生きている
・自分の絶対的な柱のような信念をもっている

なので、例えばこんなことが苦手。

・争いごとの場に居合わせること(意見を戦わせるような場にいるのも好きではありません)
・相手と意見を戦わせること(違ったとしても飲み込んでしまう)
・1年後どうしていたい?という質問
・未来から逆算して物事を考えること
・じっくり考える間もなく、回答を求められること(ゆっくりかみしめて考えたい)
・自分の信念を曲げるような言動をとること(やれないことはないし、やるしかなければやるが心的ダメージは大きい)
・自分の内側に踏み込まれるような言動をとられること
・絶対にこうしたほうがいいという強制的な言葉(アドバイスよりももっと強い)

「全部わかってる」「全部見えてる」へのざわつき

過去にも何度も出会っているのですが、ある種のワードに対して畏怖心がある。

「私にはわかってるから!!」
「大丈夫、全部見えてる」

という言葉。

「戦略性」や「未来志向」の強い言葉。

例えば先ほど挙げたワークショップで出た言葉で心をざわつかせものが、未来志向さんのこんな言葉
「想定外も想定外として、想定しておく」

戦略性さんのこんな言葉
「どういう道筋でやっていけばうまくいくかわかる」

どうしてもこういう言葉には、ざわざわする
ざわざわして、一瞬そのざわざわに頭も心も集中してしまいすべての機能が停止する。

特に自分の人生やパーソナルな部分に入ってくるような場面で発せられると、恐怖を覚える。
自分の全くわからないものが、自分の心に遠慮なく踏み込んでこられる。
侵略される、という気持ちになって、心の防壁がON。

自分にないものへの憧れが畏怖心となっている

ただ、この戦略性さん、未来志向さんたちの言葉には恐怖を感じるだけではない。

すごすぎて怖い。
この人たち超頭いい!!
同じ人間とは思えない!!

自分の思考回路からは導き出せないような話のジャンプの仕方があったりする。
どこからどうやってその話に結びつくのだろうか?
どこが省略されたのだろう?
どこを知らないのだろう?

感嘆と恐怖が同時にやってくる。

畏怖心よ、こんにちは。
って感じだ。

昔は「戦略性」「未来志向」になろうとして自分をつぶした

社会に出てから何人もそういう人たちにあってきた。

未来への道筋が見えているから、現在まで逆算して準備できる人たちがいる。
相手がどう思うかまで計算に入れた言動をとれる人たちがいる

そういう人たちと同じ思考回路にならないと生き辛いような状況が何回もあった。
でも未来よりも今が大事だから、未来を考えるのは苦痛だ。だから未来の目標を無理やり作って語った。
相手の感情まで計算するようなこと、は自分にとって犯罪にも等しい行為に思えた。
コントロールすることで運営しないといけないことは、自分の心に多大な負荷をかけた。

ストレングスファインダーの特性の順位を全部見た訳ではないが、これほどの抵抗感があるということは私の「戦略性」や「未来志向」はかなり下位なのだろう。
得意でもないことを、得意な人と同じようにやることなんて無理だ。
だから、そういうことで無理をするのをやめたい。

「戦略性」や「未来志向」を強く持っている方たちはすばらしい。
私の見えない道が見えて、遠い未来が見える。

でも、私の特性もすばらしいはずだ。
慎重に物事を考え、周囲の和を大切にしていく。
きっと誰かにとっての「見えない考え」であって「わからない行動」なのだと思う。

お互いにわからないことがたくさんある。
お互いに畏怖心を持つ必要はないが、尊重しあってもいい。

私にとっては「全部わかってる」「全部見えてる」はありえない。
だからその言葉に出会うと心がざわつくのだ。