解決するまでネガティブに向き合う

帰りの夜空

想定外の事態に直面した。
これは想定外だわ・・・としばらく受け止められなかった。

過去のいろんな出来事を思い起こして、未来が一気に暗くなった気がした。

幸運なことにこの1ヶ月の間に心の向き合い方を学んだので、怒りは全然わいてこなかった。
たぶん1年前だったら、思い通りにならなかったことと、それがどうにもならないであろうことに、
無力感とともに、それを打ち消すぐらいの怒りで、自分を燃やしつくしていたと思う。
無力な自分なんていないのよ、あいつらが全員悪いぜバーニング!!
という強烈な必殺技を発動していただろう。

ただ、「想定外すぎる」と10数回ぐらいつぶやいた。

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選ばなかった道を美化しすぎないくらいでいいんじゃない?

昔は夜眠くてソファーで、寝落ちするのが憂うつだった。
今はそうでもない。

寝落ちは気絶と同じでよくないものだ、と言うのは最近も聞いて、実際の睡眠の質とか量が足りないんだよなーと反省はする。

でも、寝落ちしたぐらいで憂うつになることないよ、と昔の私には伝えたい。

せっかくの休みを有意義に使えなかった。
その3時間あればなにか出来たけどね。

でも、寝ちゃっただけであなたはダメな人なんだろうか。
眠気と戦って、ぼんやり過ごした3時間だって満足いくとは限らないよね。
できなかったことを、、過剰に美化しなくてもいいんだよ。
自分の選ばなかった道がキラキラ見えすぎちゃうと、人生辛くなるばっかり。

本当は早くお風呂に入って、寝るのがいいんだけどね。
でも、うたた寝も気持ちいいよね。

それぐらいでいいんじゃない?

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論理より感情が大切。それでもいいのだ。

やりたいことが沢山出てきた。

今日と明日が休みだからいろいろやろうかなーとおもいきや、疲れが出たのかやる気が起きない。しかもうどん食べて、糖質パンチでさらにイライラしてしまうという。

最近イライラしないものだから、久しぶりの感情(昔は常にこの状態だったよね)にちょっと振り回されていた1日ともいえる。

そんな日に気づいたこと。

喫茶店で相方と二人で作業してみた。

私はこれまでネタ出しをして、書き物をしたことがない。

書けば書くほど、自分の勢いが抜けていく感じ。
小説、ブログ、音声配信、と順々に下書きや準備をしてみるも、ドンドン手がとまる。

整備していけばいくほど、自分が楽しくなくなってしまうのだ。

不思議。
むかしは、それでも整備してネタを書き出してやらねば、って思って、できない事を責めていたけど、今は「ま、合わないもんは仕方ない」かな。

読みやすさとか、人への伝わりやすさとか、
指摘されたことはたくさんあるんだけど、
ま、仕方ない。

魂を言葉にのせると決めたから。

その時の言葉を載せたい。

その時の想いを伝えたい。

論理より、感情が大切。

それでもいいのだ。

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好きなこと、嫌いじゃないことは全然違う

やりたいことをやり始めた。

ブログ書いてるし、
音声配信とか、ブログ以外にも、ものを書いたり。
小説も書こうかなと思っていて、最初は短編かけないかな、、と思って忙しい。
忙しくて、時間が足りないことが歯がゆい。

この1ヶ月は続けるとか続けないとかは、横に置いておいて、自分の心や魂が喜ぶことをすることにした。

心の枷が外れたら、音声配信も
「わー、トーク下手くそ(笑)」
って思いながら2回も公開出来てしまう。
周りで音声配信した人はまだいなくて、初のファーストペンギンだ、って思うと喜びが込み上げる。

言葉に魂をのせる人になる、
自分の名前で生きていく、

経営理念ならぬ、生き方理念みたいなものが湧き上がってくるから、不思議。

この前までよくわからないパーフェクト主義に苛まれて何も出来なかったのが嘘のようだ。

音声配信なんて、自分トークとかできませんから!!誰も聞かないだろうし。

というまぁ、至極もっともな自分の恐怖を

まぁ、やりたきゃやってみて考えたらいいよ。

と、また自分が受け止める。

そして別に聞いてもらえるかもらえないかは、問題じゃなくて、自分が楽しい!ことが今は一番大切。

最近思った。
嫌いじゃないことをしてるだけじゃ、魂は喜ばないんだなーって。
大体「嫌いじゃないからいいや。」っていろんなことを決めてきてしまった。
でも、

好きなこと
嫌いじゃないこと

は全然違う。

嫌いじゃないには、感情がのらない。
淡々とはできるけど、情熱はない。
いつ終わるか指折り数えるし、疲労もおおきい。

できなくはないけど、喜びはない。

好きなことはまだできてないことが多い。
でも、喜びはある。

パーフェクトであれ!の自分だったら、前者をずっと取っていたと思う。
変わらなければ、ずっと未来永劫そういう選択をしてたと思う。

でも、もう私は今のままでも頑張ってるし、パーフェクトじゃなくても平気。
だから、喜ぶほうをやっていく。

いや、喜ぶほうを選んでいく。

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予選から見てこそ、オリンピックは真に楽しめる

平昌五輪を見ている。
全部見られたらいいけど、時間は限られてるので、種目を選んでみている。

アルペン競技の種目
スノーボードクロス、ハーフパイプ
フィギュアスケート

私が見る上でこだわるのは、予選が見られること。もしくは参加者が全員参加して見られること。
ダイジェストではダメだ。

そんなのは、わたしにとってオリンピックではない。
そう心に刻み込まれたオリンピックがある。

長野オリンピックのアルペン競技での、ある出来事をみたからだ。

その時、きっとヘルマン・マイヤー選手が見たくてアルペンを見ていたのだ思う。それまでその種目を意識したことすらなかった。
(滑降なのか、回転系だったのかはもう覚えていない。)

何人もの選手が滑って、時には激しい転倒があって、ドキドキしてみていた。

もうどの国の選手かも覚えていない。
ただ、冬のオリンピックに珍しい国だったことはぼんやり覚えている。

その選手は旗門を通り過ぎてしまった。
結構な急斜面だった。

あ、やっぱりダメなんだ、、。

と思った矢先に、その選手は斜面を登り始めた。
スキー板を斜面に垂直に保ちながら、1歩、1歩登っていって、通り過ぎた旗門まで戻ってやり直した。

解説が次の旗門を通過していなければ、やり直しは可能だと教えてくれた。

私はその選手に最後まで釘付けだった。
やり直しているから、タイムはトップからは絶望的なほど離れていた。

でも滑りきったその選手の、誇らしげな様子に胸を打たれたことは、はっきりと覚えている。

その試合はやり直す選手が他にも何人かいて、みんな無事にゴールできたことを、とても喜んでいた。
そしてその度にゴールでは温かな拍手と声援が送られていた。

そうか、これがオリンピックなのか!!

あの時、心に刻まれた。

参加することに意義がある

それは真実だと。

ニュースやダイジェストでトップレベルの選手や、自国の選手の結果を知ってるだけの、オリンピックは、真のオリンピックではないのだ。
メダルの数とか、色とか、そんな情報だけじゃダメなんだ!

だからこそ、今回の平昌五輪で自分が見ようと決めた競技はできる限り全部見るときめた。
放映されないものもあったし、ネットで忠敬されていても仕事で見られないなど、物理的に無理なものもあった。

でも、きっとニュースやダイジェストでは見られない選手をたくさん見ることが出来た。

フィギュアスケート男子のショートプログラムは、第2グループにでたマレーシアのジージエ選手はステキだった。表現力が私の好きな選手だった。

残念ながらショートプログラムで彼のオリンピックは終わってしまったけれど、すばらしかった。

彼がオリンピックにでることで、彼のあとに続く選手が生まれることが、わかる。
そういう選手を知ることができる。

オリンピックにでることは、自分の国に道を切り開くことなのだ。

メダルを取ることは言うまでもなく、すばらしい事だと思う。
そこに切磋琢磨する輝きは、圧倒させられる。

メダルの輝きが、太陽のように眩しくて圧倒するものだとしたら、
わたしが長野オリンピックでみたアルペンの選手や、フィギュアにでたジージエ選手は北極星みたいな輝きだと思う。
未来の選手の道標になる光だ。

オリンピックにはそういう側面がある。
そういうことも忘れずにいたい。

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罪悪感なくやる

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。

やりたいことがたくさんあります。
やりたくないこともたくさんあります。
やらなくちゃいけないこともたくさんあります。

人生における割合に例えるなら、
1:4:5ぐらいかな。

しっかりしてパーフェクト人間でなければ価値がないと思っていたので、9割近く自分の人生を望んでないことに捧げていました。

でも、今日改めてたくさん自分と向き合う機会があり、思いました。

しっかりもの、まぁ、いいや。
パーフェクト、無理無理。
それで誰かに嫌われても仕方ないやーって。
誰かを安心させるために、いい子をやるのはもうやめよーって。
100%無条件に相手に譲るのはやめよう。
交渉はしてみよう。

私は好きなことしてもいいのです。
それだけ打ち込める好きな物もあったはずだし、今からいっぱいやってあげようと思った。
小さい頃に好きなことはほとんどやらせてもらえず、いや、はっきりいって24で家を出るまで、常に親の法律で生きてきたから、親にとって100点満点でいい子で応えてきたし。

あの時できなくて、やりたかったことやれてる自分をたくさん、物語として紡いだから。
それをやっていい。
その時にこうして特化させた文章好きを極めてもいい。

私の心は自由なのだから。

今まではその好きなことや自由すら、
続けられないとか、
やらなくちゃいけないことがあるのに、やれないとか、
実は好きじゃなかったかもしれないと気づいても、謎の罪悪感でやめられなかったり。

いいわ、もう。
やりましょ、やりたいこと。
毎日続かなくてもいいわー、やりたいこと。

そんな気持ちになりました。

この1ヶ月はやりたいことだけやろうと思います。

今日はそういうことにきづいたアニバーサリーなので、カレンダーに登録しておこう。
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小さなストレス

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。

時間がありません。

ショートスリーパーではなく、8時間ぐらい寝ないと元気出ません。
今、平均6時間ぐらい。

睡眠時間削ってもやりたいことが終わらない。
ブログ、オリンピック、家事、読書などなど。

音声配信とかもやりたいし、ブログ以外にも書きたいことあるし、毎日やれないことと、やらなきゃいけないことを考えると憂鬱。

何かを捨てろということなのか。

全部じゃダメなのか?

時間の使い方なのか?

小さなストレスを今日も抱えて眠る。

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怒ることが少なくなったら、書くことがなくなってしまった

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。

最近自分の感情と向き合うようになって、怒りが少なくなってきました。
眠れないほどの怒りとか、理解できないほど許せない人の言動とかがあんまりない。

そのせいか、ブログに書くことがなくなってしまったんです。

そもそも私は怒りの人だった

ホームページの日記ページ時代から数えて、4代目になるこのブログ。
日常を書いているように見えて、根底にあるのは怒り。

大学時代
「バイト先にこんなひどいことをする客がいる!」
「日本の政治ってひどくない?」
「就職面接でこんなにぞんざいな扱いをうけた!」

社会人時代
「なんで・・・延滞料金がありますっていっただけで殺すぞっていわれなきゃならないんだ!」
「今日・・・なんかカウンターをバンバンけって脅してきたお客さんがいた」
「お局社員に今日も嫌味を言われた・・・」
「メモをとれない研修生がきた!!」
「新店長がえこひいきしまくって、店のチームワークががたがたなんだけど!!」

今までいったい何記事書いているかわからないけど、たぶん8割はこういう記事で埋まっていると思う。
映画を見たとか、特撮が好きだとか、舞台を見に行ったとか、そういうことも書いてはいる。
でも圧倒的に私が筆がのって、書けるのはネガティブなこと。
怒り、悲しみ、さらには憎しみ。

最近ポジティブになってきた

感情に向き合うワークに取り組んでいます。
怒りの根底にあるのはいったい何の感情なのか?
そういうことをつきつめて考える。
そうなると、あんまり怒りが持続しないんですね。

昔は「今日いいことあったっけ?」って思っていたけど、
今は「今日ってなんか悪いことあったっけ?心穏やかに過ごせた気がするから、ま、いっか!」です。

私を駆り立てるパワーの源がなくなってしまったんですね。
ブログ書こうっていう気力もぱったりと0に。

書こうかなぁ~とは思うけど、ポジティブなことは指が文章を書いていかない。
文章を書きたいという欲求はあるのに、駆り立てる怒りがない。

自分がポジティブであると信じたくないビリーフ?!

ポジティブだわ~とはぼんやり思っていて、いいことなんだけど、
どこかでそれを「そんなん私らしくない!」って抵抗しているビリーフがあるのかも。

ポジティブだって思っちゃいけない
幸せだって思っちゃいけない

みたいな。

私が私に「お前はネガティブなところにいるのがお似合いなの!」って言ってると思うと泣ける話だ。
でも、そういう入り口まで進んできたって思えばいいのかもしれないですね。

雪がとけたら春になる。
春には花が咲く。
今はただ、雪の下で待っている。

「正義の怒り」が存在しないと気づいたら楽になった

こんばんは。真夜中のブロガー、蒼です。
最近自分の感情と向き合う取り組みをしています。

そのおかげで、負の感情に振り回されることが少なくなりました。
何よりも小さいころから持ち続けてきた、怒りの感情との付き合い方がわかってきたのがうれしい。
ずっと自分の中に「正義の怒り」みたいなものが燃え続けていました。
ブログもそういう怒りを発散する場所であったような気がします。
いつも何かに怒っていたし、それを「正義の怒り」と信じて疑わないものもあった。
えこひいきする店長とか、セクハラ発言をしてくる上司とか、非常識なお客さんとか。
そういうものに対する怒りを、パワーに変えて生きていくのが私だと信じて疑わなかった。

でも・・・その「正義の怒り」の炎で自分では抑えきれないぐらい燃え上って、どんどん生きていくのがつらくなった。
常に怒りが真ん中に居座っていて、楽しいとか幸せとか、そういう感情をどんどん感じなくなった。
怒りがつらいので、怒りをかんじないようにしたら、全ての感情がに対して無感情になって、毎日生きる意味がよくわからなくなった。

それが、感情と向きあいつづけたら、自分が見えてきた気がします。

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