私はあまり「○○愛」というものがない。
通っていた学校とか、自分が住んでいた地域などに愛着があまりない。
卒業したり、引っ越しをしたり、一つの区切りが終わると、すべてをそこにおいて、次へ行く。
なので、一度区切りをつけたところに、戻ろうという行動をほとんどとらない。
そういう自分を「欠陥人間」だと思っていた。
愛が希薄だ、とか。情がないとか。
特に身近な人間が私とは真反対の人間だったので、余計に感じていました。
でも、過去のつながりよりも、今のつながりを大切にする自分でいい、と考えるようになりました。
そういう資質を持っているから、それでいいのです。
父は「○○愛」の塊だった
父はとにかく「○○愛」の塊の人である。
生まれ故郷、地域、県、出身校、会社と、全てにおいて愛を注いでいる。
小さいころ高校野球の季節になると「出身県の結果はどうか?」「東北の学校は勝ったか?」を必ず聞いてきました。
住んでいる西東京のエリアについても、気にかけていた。
会社の自分が携わっている事業のことなんて愛するあまり、定年後大学院で研究までして修士論文を書くぐらいである。
そういう姿を小さいころから見ているが、1ミリも理解できなかった。
私は「○○愛」が全くない
対して私はそういう「○○愛」というのが全くない。
例えば「郷土愛」。
実家のあるところを故郷、と呼ぶのかもしれないが、深い思い入れはない。
街が変わったりしているところに、風景が変わったことに寂しさを感じたりはする。
でも、「毎年必ず帰省せずにはいられない」という思いが全くない。
(むしろ・・・実家ともめているのでできれば近づきたくないというのが本音である)
「母校愛」もない。
私の出身大学は駅伝やラクビ―などでそこそこ有名なところだ。
でも別に勝とうが負けようが興味を持ったことがない。
ないので、知らない。
私の出身高校が中高一貫校に変わって、なくなってしまった時もそうだ。
ちょうどその時に、通っていた高校付近に住んでいた。
校門にかかっていたプレートがいつの間にかなくなっていたし、私服の学校だったはずが制服着ている学生でいっぱいだし。
そういうのを見ても、「あぁ、そうなったんだなぁ~」って思っただけで、感慨はなかった。
周りの友達は「高校という最後の看板がある時に、文化祭に!」と誘ってくれたけれど、いかなかった。
私は「今」にしか興味がない
私は過去にあまり興味がない。
一つの時代が終わったら、次の時代に行く。
過去より今、が私にとっては大事だ。
目の前にある今に、誠実に向き合う。
人間関係もそう、今、目の前にいる人たちを大切にする。
お互いの時間が流れて違う方向に行くなら、それはそれでいいと思っている。
無理に引き留めようと思わない。
なので、私はずっとつながりっぱなしの友人とか、知人はほとんどいない。
でも、「濃い今」を共有した人たちがたくさんいる。
それでいい気がするのだ。
それが自分だ、という気がする。