食べることを記録し始めてみたり、「たんぱく質」をとろうとか意識してみたり。
最近、食を意識している。
意識し始めてびっくりするのは、「食べることへの優先度が低い」ということ。
そして食べるものへの興味のなさ。
1日を振り返って、今日何を食べたっけ?と思った時に思い出せないことがある。
体を義体化したい、食は嗜好でいい
「攻殻機動隊」が好きなのだが、私はあの世界で生きていきたい。
完全義体にすると、繊細にすべてを動かすのが難しそうだが、義体になりたい・・・。
体に回す栄養とか、考えなくてもいいのだ。
「嗜好としての食」に変わる。
サイボーグ食的なのがあるらしいので、栄養に頭を悩ませなくてもいい。
味だけ再現されて、栄養の中身は全部一緒なのだ。
なんて便利なんだ、今すぐその体になりたい。
「嗜好としての食」が私にとっての、「みんなとの美味しいごはん」なのだとするなら、ご飯の約束はすぐする説明がつく。
「食事をする」ことが面倒なのは小さいころから変わらない
昔から「めんどくさいなら、食べない」がやれる人だった。
栄養不良な現在だと、「食べない」をやると、ただでさえ足りていないエネルギーがなくて動けなくなるのでしぶしぶ食べる。
しぶしぶ食べるので、何かを加工したいとか思わない。
手っ取り早く口に入れて終わりにしたい。
パスタとか楽。
沸騰したお湯にパスタ入れて、火を止めて、時間になったら取り出せばいい。
レトルトのソースがたくさんある。お腹空いた!から、10分で食べられる。
もっと短くしたければ、カップラーメンがいいだろう。4分以内に食べられる。
子供の頃は、お餅が好きだった。2分もしないで食べれる。
10個レンチンしてお昼ご飯にしていた。
お腹がすいたら、すぐに口に物を入れて食べ終わりたい。
私は食器にこだわらないし、食卓を飾ろうとすることにも興味がない。
家で食事を楽しもうと思っていないからだ。
小さいころ、料理やカップにこだわるお家に遊びに行って「どのカップでお茶を飲みたい?」といわれた意味が全然分からなかった。
「味変わらないんでしょ?なんでもいいです。」っていって絶句されたことを覚えている。
「今日何を食べようか」が楽しみな人は天界にいる人で尊敬している
私にとっては、「料理が好きな人」は異世界の人だ。
異世界どころか、天界にいる人として尊敬している。
今日どんな献立にしようか
この料理にどんなお皿を使おうか
食卓をどう飾ろうか
どう盛りつけようか
こんなことを毎日の生活の中で、呼吸するように自然にできるというのだから。
なんてすごいことなんだろう。
いや、「今日何を食べようか」とワクワクして買い物をしたり、冷蔵庫をあけます、という人すら別世界だ。
そんなことを考えることはめったにない。
飲食で働いているとき、まかないとか、内伝とかで好きなものが食べられた。
でも、1週間もたたないうちに私は選ぶことがめんどくさくなり、常に同じものを食べるようになる。
なんだったら「しまった、お客さんに出そうしたやつ間違えてしまった!」とかいうご飯を食べ続けていた時代もある。
私は私を生かすことに興味がない。だが・・・
こうやって数日、食に向き合い続けて思うこと。
それは、「私は私を生かすことに興味がない」ということだ。
死なない程度に日常食べて、たまに嗜好として食を食べれればいいと思っている。
昔から「健康でいたい」とか「ダイエットしたい」とか口にしたことはあるけれど、実は全部どうでもよかったのかもしれない。
だって、こんなに食がめんどくさいんだもん。
これって、究極の自己否定ともいえる。
自分を生かすという、一番根本的なところに興味が持てない。どうでもいい。
でも、私はやりたいことはまだある。
もう少し生きていきたいと思う。
今日もあぁ、こんなにめんどくさいことなのに・・と思いながらご飯を食べるだろう。
今日何を食べたか思いだせない、と思いながら、食事の記録を書くだろう。
あぁ、めんどくさいと思いながらも、向き合うだろう。
向き合いはじめたのだから、きっと私は私を生かすことを少し許しはじめている。