今日、メンタルコーチとのセッションがあった。
最初は「大体のことって、2ヶ月も経つと燃え尽きて疲れてしまうんです、、」という相談をしていた。
でも深く話が進めば進むほど、違う感じになる。
例えば、メルカリも2ヶ月くらいたって売れる商品がなくなったころ、もういいかーと飽きた。
それは別にいい。
でも、、ホメホメ&感謝日記なんかもそうなのだ。頭では続けた方が実りあるかなーと思っていたりしても、投げ出したくなるぐらい心が限界になる。
私は、人と関わるのが一定のスパンが来ると消耗してしまうのだ。
関わることも、関われないことも、そういう全てに耐えられなくなってしまう。
それを私は今までずっと「一定のライン」と読んできた。きっとラインを超えるか超えないかのとこらまでくると、強固な防壁を作るのだと思う。
それをこの間、ブログに書いていた。
これ▼
それはビリーフだよ、とメンタルコーチにいわれた。
私は人と深く関わることを、無意識に避けるのだ。
所詮人とはわかりあえない、という思いを抱えているからだ。
私は長く付き合っている友達が少ない。
もちろんいるけれど、普段連絡をとったりすることはなくて、Facebookで近況を知るぐらいだ。
辞めた会社系の人間関係は、何一つない。
その瞬間に「過去」として、私の中では終わったフォルダーに片付けられるのだ。
会社の人とプライベートでご飯に行くとか、遊びにいくとかも、極端に少ない。
ないこともないが、誘われると後ずさりしてしまう。
だからみんなが、何かしらの思い出を共有している中、私はいつもどこか1人でみているポジションにいた。
お昼も1人で本を読みながら食べる。
みんなとワイワイ食べるのは居心地が悪い。
でも、決してその1人も居心地がいいわけでもないのに。
ネットもそうで、ご飯にみんなでいった!という情報をみると、「あぁ、誘われないポジションなんだな」と努めて淡々と眺めるようにしている。
そして、関係性をフェイドアウトしにかかる。
けれど、冷静にかんがえれば、深い付き合いを避けるような言動をとっているのだ。
それを反省して、何かしらやって見るものの、心が疲弊しきってしまい、、ネットから消えてしまうのだ。
ブログもそう。
私は自分に向かって本音の記録を書き綴ってきたけれど、誰かほかの人に向けて書く、ということは極端に少ない。
過去の自分にすら、気持ちが悪くて書けない。
今の私以外、私じゃないの。
という感じか。
過去の私すら、もう終わったものとして、私は興味を抱かない。
だからいうのだ。
「誰に読まれなくたっていいんです。」
「読んでほしいターゲット?いないんです。」
と。
その一方で、PVを伸ばしたいとかいうから、心がおかしな方向にねじれていくのだ。
小さい頃、テレビはずっとNHKだけだった。
サザエさんと、ドラえもんと、特撮だけ。
ドラマも、バラエティも見ることが叶わなかった。
門限も1人だけ1時間も早いし、友達の家に行く、というのも相手の親がいないと許可がおりないし、お小遣いもないから、駄菓子も買えずに、ずっと1人だった。
友達が何を話しているのか、みんながなにで盛り上がっているのか、わからない時代を過ごしているあいだに、私はこのビリーフを作り上げたのだと思う。
どうせ人とはわかりあえないのだから。
1人でいれば、それでいいのだから、と。
タイムマシンがあったら、当時の親をつかまえて、教育方針を罵倒しつくしてやるのになーと思わなくもない。
育て方を間違ってる、と、
子供時代はせまい世界で不幸だった、と。
でも、それが叶わないことも知ってるし、私は過去を変えられるとも思っていない。
親になんて、もう、なんの期待もない。
私は子供時代を本と、存在しえない向こうの世界を作ることで乗り切ってきた。
独り言が多いね、といわれてきたが、違うのだ、私は私の中の違うキャラクターと会話をすることで孤独を埋めてきた。
私はこちら側でどれほど孤独でもいい。
向こうに仲間がいるから。
そういうベースで文字を書き、創作をして生き抜いてきた。
でも大人になって、こちら側の世界に忙殺されるようになって、向こう側がなくなってしまった。
私は元の1人の世界に帰りたがっているんだろうか。
それとも、こちら側の世界で繋がりたがっているのだろうか。
あまりにも1人で、輪の外にいる人生を送りすぎていて、どう生きるのか今、よくわからないでいる。
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