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ツレヅリストの蒼です。

昨日こんなブログを書いておいてなんですが。
私は正直、あの頃の文章のほうが、今よりも「生きている」と思っています。

なんていうんですかね・・・・良くない方向ではあったのですが、魂がある文章を今か、あの頃か、といわれたら、断然前者。

今の私の文章は、正直つまんねぇわ、と思っています。
つまんねぇわ、というかなんていうか、「私ってこういう文章しか書けないんか。」っていう失望かなぁ。

そう、昔書いたこともあるんですけど・・・私、怒りを手放したら、ちょっとつまらない人になってる気がします。

でもね、最近思うんです。

誰かに伝えたいことがあるなら、感情を文章にこめる必要なんて、本当はないのかもしれない。

だからつまらない人になってんなぁ、の方向は正しいのかもしれません。
自分に対しては失望が募るけれど。

怒りこそ、我が文章の活力だった時代

このブログの前身のホームページの日記から数えると、もう15年ぐらいやってるんですけど。
基本的に、何かに対して怒ってたんですよねぇ。

18歳とか、若かったんで、「日本の今」とか「政治」とかに怒っていた気がしますな。

そのあとは、新卒で入った現場がそれはもう・・・お客さんから罵詈雑言あびせられるところだったんで。
「今から殺しに行くからな」って言われたり「俺は刑務所入ってたんだよ」ってすごまれたり。
まぁ、それ以外にも普通にいろいろ、徹頭徹尾怒鳴り散らしている人、2時間延々とクレームの電話かけてくる人、お店にエロいイタ電書けてくる人、思い出すだけでも、怒れる環境に身をおいていました。
(その6年間の職場で、心身病んで入院したり、心療内科通ったりしましたしね)

特撮関係に荒れ狂っていたのも、たぶん心身病んでたのと同じぐらいかな。
経営陣が変わって、作風がぐっと変わったときには、もうそれはもう、批判という名のディスでした。

次の職場はお客さんは穏やかだったけれど、職場の人間関係がちょっといろいろで。
セクハラ、パワハラ的な発言を平気でいう男性社員が上司だったりして。
あと、私とタイプが全く間逆な人が上司になった時は、それはもう「果たし状」おいて帰ったりとかね(笑)
心は常に戦場でしたよねぇ。

次の職場は、信念として働けない場所に転職してしまったし。
今思うと、もうそれ以外言葉が見つからないわ。
安く使われていた印象は拭えなかったし、最後の最後までいろいろトラブルがつきまとった職場でした。

なんていうのか、自分の怒りに対しての「燃料」に事欠かない人生を歩んでましたよね。

でも、裏を返せば、それだけ「燃料」があるわけだから、文章はノリノリ。
勢いと、エネルギーがあって、文章に魂がこもっていたと思う。

方向性は全然良くないし、もう二度とその方向に戻るつもりはないけれど。
あのときの、私の文章の勢いは懐かしいし、パワーもパンチもある。

怒りがなくなったぶん、なんていうのか・・感情の薄い文章になっているんだよね。
魂がないの、命がないの。

メンタルコーチについて、感情と向き合って怒りが少なくなってきた頃に書いたブログ▼

感情のない文章を書くって、なにか意味あるの?

私自身、小さい頃から常に文章を書いてきました。
詩も、小説も、ブログも、あと紀要に投稿したこともあったかなぁ・・。
卒論は「平成特撮と現代社会」だったし。

スタンスは、今も昔も変わらず、「私がどう思ったか、考えたか、感じたか」というもの。

というよりも誤解を恐れずに言うならば、

感情のない文章を書くって、なにか意味あるの?

というところだろうか。

理詰めで、論を重ねて重ねて結論に持っていく文章とか大嫌いだし。
(現代文の成績は悪かった、センター試験なんて文系のくせに理系の子に評論文をおとして負けた)

「私はこれこれこういう結論である。理由は2つある。1つ目はほにゃらら。2つ目はほにゃらら。ゆえにこれこれこうなのである。」

っていう文章を、子供の頃からずっと嫌っている。

だから?なに?って毎回読みながら思ってしまうのだ。
文章を通して、人格が透けて見えない文章は信用できない。
そこに嘘があるような気がしてしまう。

人格が透けて見えてはいけない、そんな類の文章があるのは理解している。

世の中には人格が透けてはいけない文章も存在するということは、頭では理解している。
理詰めで万人が納得する文章は必要だ。
感情がないからこそ、言語が違っても通じるのだから。

論文や法律、条文などが「ってか、こんな感じっしょ」みたいな内容だったら、世界は滅んでいる。

でもさ、個人が発信する文章だよ。
サービスの情報とか、商品の紹介とか、映画や本やマンガのオススメを理路整然とかかれて、最後に「こんなサービスでもっとお得に」というのとか、そういうのに出くわしてしまうと思うのだ。

お行儀のいい理詰めの文章なんて、つまんないよ。
そこに命はふきこまれてんのかい?

って。

誰かに伝えたいことがあるなら、感情を文章にこめる必要なんて、本当はないのかもしれない

当たり前だけれども、ネットでみんなが発信するのは「誰かに伝えたいことがある」から。
そうなると、自分で先程かいたけれど、
「理詰めで万人が納得する文章は必要だ。感情がないからこそ、言語が違っても通じるのだから。」
が正解なのかもしれない、と最近思う。

感情は心を動かすけれど、「動かすこと=伝わること」、とは限らない。
(もしも伝わっているなら、クソリプとか炎上とか、もっと少ないはずだから)

自分の文章の感情を薄めて、薄めて、薄めまくったぐらいがいいのかもしれない。
つまらない人になってんなぁ、の方向は正しいのかもしれません。

誰かに伝えたいことがあるなら、感情を文章にこめる必要なんて、本当はないのかもしれない。

最近、そう思ってしまう自分がいる。

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