内省持ちの私が見る世界とは、孤独な世界である。

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ツレヅリストの蒼です。

訳もなく孤独です。

正確に言うと、「訳はあるが訳分からない」感じで孤独です。

それはすなわち、「人と対比」した時に怒る静かな「差異」を感じる痛みなのかもしれません。

時間差で来てるんです。
じわじわと。

先日ストレングスファインダーの上位に内省がくる私と、分析思考がくる友人とお互いの思考について語り合う機会がありました。

その時に友人も「衝撃すぎる」と深いダメージを追って帰っていったのですが、じわじわと私もダメージを受けている感じがします。

なんですかね、Apex legendsで円の外にでてしまって、シールド持ってても関係なくじわじわ体力削られるような、あんな感じ。

モンハンで毒やられになって、ちょっとずつぽわぽわと削られてく感じ。

「差異」とはあってあたりまえのことなのですが、知識と体感はやはり違うのだなと、ほんとに思います。

この話はただ「そんなふうに思う人もいるんかいな」という程度に読んでいただければ幸いです。
あと、「内省」が全員こうというわけではなく、私のいろんな資質が絡み合ってのものであることを、、最初に書いておきます。

「訳すことの出来ない」思考

考えていることが、正確に言葉にできないとはわかっているのです。
伝えようとして、こうして言葉にしていたとしても、人に伝わるように「訳されていない」のです。
そして訳し方もわからない。

そのことを苦もなくできる世界に、昔から行きたいわけです。

電脳ロビーで、感覚も含めてイメージ共有できるのが憧れです。

本当にこの言葉で表現することが正確なのか、いつも迷いがあります。
言葉のようなものに置き換えてしまったら、陳腐になってしまって、違うものになってしまう。

常にそう言う思いとの戦いが、私の内省の日々です。

質問に対して答えなければ、応えなければ、という思いと同時に「正確なのかこの考えは、思いは。これをいってしまうことは正しいのか」と常に戦いがあります。

陳腐な言葉でしか語れないのに「あなたを理解した」と言われることへの恐怖

私が人から言われる時に嫌悪するほど、嫌いな言葉。
それは「(あなたのことを)わかっている」という言葉。
あなた、は私だけでなく人全てを含みます。

言葉になんとか置きかえて表現したことを、「それで(あなたのことを)理解した、わかった」と言われると、
「本人ですらわからないのに、何をわかったというの?」
という激しい拒絶反応がでます。

昔メンタルコーチに「きっとわからないけど、人の心の動きを知りたい」と伝えた時に「わかりますよ、全部。」といわれて、途端に知りたくなくなったのをよく覚えています。

自分を知るツールとしてエニアグラムや、ストレングスファインダーを使うのは好きですが、それを用いて「あなたはこのタイプですよね」といわれるのは、本当に嫌いです。

「人の心の中は誰にもわからない」場所である

自分の心の中、思考の中を言葉にすることが出来ないし、することを決して良しとしない私は、他人の心の中や動きには興味を示しません。

さきほどかいたように、「人の心の中までわかる」と言われた瞬間に興味をなくすように。

どれほどそばにいてくれる相方がいたとしても、その本当の心中をはかろうとしたことは、あまりありません。
本当の意味で理解できない、と思っているからです。

わからないところに土足で踏み込まないことこそが、信頼である、といえばいいのでしょうか。

ゆえに踏み込まれて質問をたたみかけられると、恐怖を感じます。

「知らない世界がある」ということが生きていく上で大切

私は「知らない世界がある」ということが生きていく上で欠かせません。

昔本を読んでいたのは、そこに知らない世界があったから。
今、YouTubeでゲーム実況を毎日見まくって何回も見返してるのも、知らない世界があるから。
転職やメルカリなんかも、知らない世界との出会いです。

知らない世界の地図を埋めたくて、その世界に飛び込む訳ではありません。
「知らない世界」をみて、ワクワクしたいだけ。
平たく言うなら、アトラクションに乗るようなものです。
ディズニーランドのカリブの海賊みたいなもの。

でも何度も繰り返してると、そのうち体感で何があるのか、起きるのか、わかってしまう。
そうなると、もう潮時なのです。
興味はないのです。

次の世界をのぞきにいかないといけないタイミングが来た、という感じ。

だから私にとって「知らない世界」があるということは、とても大切なことなのです。
自分の外側にも、内側にも知らない世界がなければ意味がない。

知らないことを埋めることは、「終わり」に近付く行為なのです。

「私」と「世界」という軸

私の内省思考は常に一人称、主観。
客観情報は対して重要ではありません。

誰かの行動に対して、自分がどう感じたか、考えたか以外に、あまり興味はありません。

「あの人はこういうことをいってこんな行動をむけてきた。」
という時も「あの人が何故そのような反応をしたか」を細かく分析することには興味がなく、
「あの人の世界や価値観は自分とは合わなそうだな。そういう世界は知りたくないな、さよなら。」とすとんと触れ合わない方角に舵を切ります。

そういう意味では恐ろしく冷淡だし、他人に期待をしません。
「知らなくていい世界」と決めたら、存在すら消し去るぐらいに割り切ります。

仕事上にそういう人が現れたら、決して心は開きません。上辺はニコニコと愛想がいいビジネスモードの内側に鋼鉄の扉をおろします。

「私」と「世界」は明確に別のもの、と思っていただいても構いません。

「現在の私」以外は自分自身も「別の世界」

私は過去の私には興味がありません。
同じように、未来の私にも。

存在しないものの思考や感情に、思いを馳せてどうにかなるものでもなし。

ブログやビジネスの話になると
「過去のあなたに向けて」
というアドバイスをもらうのですが、「過去の私」は遠い別の世界の人で、どこに共感を見いだしたらいいのか、わからないんです。

同じ理由でブログのリライトもしません。
他人の文章に対して、無断改変するみたいな感覚になるので、やりません。

私は毎日死んでる。
そんなふうに思ってもらえれば。

それとも「我思うゆえに我あり」ってのに近いかな。

常に孤独。自分からも切り離されている

私の心の感覚としては「常に孤独」というのがあります。
過去と未来の私にも繋がりはなく、常にひとり24時間生きて死ぬ。
相方がいようとも、抱きしめてくれようとも、「孤独」という思いがからだからなくなることはありません。

知らない世界があることが、生きる上で大切だという一方で、今の自分以外は「知らない世界」と認識して生きるのは、想像するより辛い時があるのです。

内省を軸に生きる私の心中はいつもこんな感じです。

明日もまた別の私が「孤独」に生き、そして死ぬ。
そしてその翌日もまた「孤独」に生きていきます。

via PressSync

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この記事を書いた人

蒼(あおい)

蒼(あおい)

【徒然と日常を綴るツレヅリスト/書店員】
●2018年5月31日、自分を大切にしない働き方をやめました。
●現在は書店員(料理・手芸など以外の実用・芸術担当)
●ご機嫌に毎日を過ごす方法にチャレンジしてます。

twitter:@yazumi_aoi
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