「紙一重である」と胸に刻んで今日も生きる

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こんにちは、蒼です。
今日は本当は、心待ちにしていたレシピ本について書こうと思ったのですが。
なんだか、モヤモヤすることがあったので、そのことについて書こうと思います。

川崎の事件についてです。
男性が、通学バスを待っている人たちを数十秒の間に襲って自殺した事件。
犠牲になった方が2人いらっしゃる。
ご冥福をお祈りいたします、というような言葉では表現したりないほど悲しい事件です。

そのことについて、ニュースであったり、ネットであったり。
さまざまなことを目にして、なんだかもやもやしていました。

こうやって自分も語ろうとしておいて、なんですが・・・。
この事件は決して心に納得のいく答えはでません。
だって、犯人の男性は死んでいるから。
「誰でも良かったから襲った」のか、
「たくさん殺したかったから、力の弱いものを襲った」のか、
もっと他に実は深い理由があったのかどうか。
本当の理由はなにもわかりません。
わかりようがありません。

でもなんとはなしに、もやもやしているのです。
こうして私も含めていろんな人が私見を述べては、争っていることに。

どういう意見を持つかは、誰にも強制できるものではない。
だから、「1人で死ね」という意見も「そういうことをいうものではない」という意見も、それはそれで正しい意見だと思う。

なので、私も一つの意見を、ここに書いてみたい、。

私は、こういう事件が起きると常に思うのは「自分とあの人との差は、紙一重だ」と思うことなのです。
その紙一重が、どれほどの違いなのか、ということを考えてしまうのです。

なぜ私が生きているのか?

スクールバスを待っている人たちを襲った。
という事件でした。

私も毎朝、バスで通勤しています。
来るバスをただ待っているときに、刃物を持った人が突然襲ってきたら。
首を切られたら。

死ぬ自信があります。
基本的に衝撃的な出来事を目の当たりにすると、言葉がでなくなり、固まります。
過去の出来事で用意に想像がつきます。
上司がいきなり胸ぐら掴んで恫喝する現場に出くわしたり、お客さんに殺すぞ、ってカウンターをがんがん蹴られたとき。
私はその場で硬直して言葉がでませんでした。
言いたいことだけが、ぐるぐる頭の中を回っているけれど、声には出ず、動けもせず。

だから、私がそういう事件に巻き込まれたら、きっとただ刺されるがまま。

なんで自分が生きているのか、ということをいつも考えます。

3.11のときに、従兄弟の子供が亡くなりました。
1歳の誕生日を迎えることなく亡くなりました。
当時の私は、職場の環境に全く馴染めず、自傷した傷を触っていないと職場の椅子に座っていられないほど病んでいました。
手の甲とか傷だらけで、なんでこんなことしてまで生きてるのか不思議だった。
だから、従兄弟の子供が死んだと連絡が来て、新聞の死亡欄に名前を見つけたときに
「あぁ、私が死ねばよかったのに。なんで私が生きていて、未来が明るい赤ちゃんが死ぬのだろう」
と思えてならず、そのこともだいぶ気に病んで、精神はもっと下り坂でした。

たまたま里帰りしていて津波にあってしまったから、と。
たまたま関東にいたから、と。

そのたまたまに、どれほどの差があるのか?

その紙一重の差、に答えがでたことがありません。

なぜ私は殺さないのか?

人を強烈に憎いと思った、最初の記憶は弟でした。
弟が生まれた時点で、私は「子供らしさ」ということを完全に失って生きなければならなかった。
そのことに対する強烈な憎しみを、弟に向けたことがあります。

小学生の時に、ある日突然、昨日まで遊んでいた子たちにいじめられはじめられたときも憎みました。
私が好きだな~と思った男の子が、デブでブスな私に好意を寄せられたことにプライドを傷つけられ、始まったことでした。
その時は「遺書に全部書いて、ベランダから飛び降りて死ねば復讐になるに違いない」と思っていました。
4階の窓から飛び降りたら、多分死ぬだろう。
包丁のほうが楽だろうか?とこっそり包丁を握ったこともある。

それからあとも、今で言うところのカスタマーハラスメント的なことにさらされ続けた社会人生活で。

「死ね」とか「殺す」とかいわれたり、それ以外にも全く話の通じないクレーマーみたいな人にであったり。
そういうときに「畳の上で死ねると思うなよ、苦しんで死ね!」って毎回呪ってた。
何百回呪ったかわからないわ、10年以上接客やってるけど。

自分が毎日12~3時間働き、休みたいと思ってもシフトに穴が開くから休めないというときは、
「土日は入れませ~ん」というスタッフにも殺意が湧いたし、なんなら土日に来店するお客さんにも殺意が湧いた。
「お前らが連休だとか言ってる間働いてるし、連休終わっても働いてんだよ!!」
そんなに働いて働きすぎじゃない~?とかいってくる人は、カレンダー通りにしか働いたことがない人だ。

風邪を引いて高熱が出ようと、無理やり熱冷ましをのんで張ってでも出勤するしかない私と同時期に
「風邪引いて出勤する人とか、マジで迷惑」という親しいグループの人達がSNSで盛り上がっていたときも、
休めないことが想像もできない環境にいる人たちのことを、呪っても呪いきれない気持ちだった。
「そういう会社に問題があるよね」といわれたときには、本当に全力で呪った。
事実だけれどそういうことではなく。
そんなことは嫌というほどわかっているけれど、ただ私は「それでも出勤しないといけない現実」がある人がいるとわかってほしかっただけで、訳知り顔で問題だよね、といわれたかったわけではなかった。

歯車が欠けたら回らない組織があり、その組織は歯車が粉々に砕けるまで使い続けるから、多少ゆがもうがきしもうがしったことではないということ。
そして、そういう歪んだ歯車でぎりぎりと回しているからこそ、低コストでみんなが買い物したり、ご飯が食べられるということが、きっと想像もできない世界にいるのだろう。
(世界が違うから、と思って最近ではそういう話題は目に入らないように調整して生きている)

その思いが自分の体の中にだけとどまって、ただ怒りに震えているだけだったので、今私はこうして文章を打っている。

でもその思いが、もうどうしようもないぐらい暴走して。
当時働いていたところには、牛刀があったから、それで突然怒りを振りかざすことだって可能だったろう。
切れ味はそんなによくないけれど、それでも誰かの命を奪うことなんて容易だったはずだ。

なにしろ、パン切り包丁でだって手を切ることができる。
怒りに任せてパン切り包丁の刃を握って、パンと一緒に手を切って。
痛みよりも怒りのほうが大きいと、血に濡れた手で思ったことがある。

死ね、死ねばいい、殺すぞ、この世から消え去れ。私の人生に二度と関わってくれるな。

脳みそがこういう言葉でいっぱいのまま、笑顔でふるまっていたことだってあるんだから。
私はきっと、何かの糸がぷつんと切れたら、凶行に走っていたっておかしくはなかったのだ。

私は殺意を知っている。

だから、いつも思う。
なぜ私は殺さないのか。
殺さなかったのか。
何が私の紙一重を守っているのか。
いたのか。

その紙一重だって、永遠に続くと誰が保証できるんだろう。
紙一重、紙一枚、簡単にある日、破ることができる。

何がスイッチになるのか、そういうのって、本人ですら、そのときにならないとわからない。
そして誰かのスイッチと、私のスイッチは別だ。
でも、確かに私はそのスイッチを持っている。

冷静に見る第三者であるよりも、自分は紙一重の存在だと思って生きていたい

あまり今後この事件についてニュースで追ったり、SNSでおいかけたりはしないと思う。
でも、訳知り顔で、外野で、あぁだこぉだいうことだけはしたくない。

私はどちらの側になりうる可能性を忘れないで生きたい。
被害者にも、加害者にも、どちらにも紙一重でなれることを忘れないで生きたい。
そのことを忘れないで生きることが、私なりの事件への向き合い方だ。

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この記事を書いた人

蒼(あおい)

蒼(あおい)

【徒然と日常を綴るツレヅリスト/書店員】
●2018年5月31日、自分を大切にしない働き方をやめました。
●現在は書店員(料理・手芸など以外の実用・芸術担当)
●ご機嫌に毎日を過ごす方法にチャレンジしてます。

twitter:@yazumi_aoi
Instagram:@aoi_2re2re

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