今日書く話は、私の大きな失敗の話だ。
この失敗をリカバリーできるのはいつになるのかわからない。
過去の私から、現在の、そして未来の私への戒めの記事だ。
あなたはネガティブな発信をして、悲劇の主人公になりたい?
これまでの私は少なくとも、ずっとそうしてきた気がする。
愚痴、悪口、嘆き、を書くのが楽しいのは、同情してもらえるからだ
仕事の愚痴、上司の悪口、自分の人間関係の不運。
こういうのを書けるの、
mixiしか、twitterしか、Facebookしか、ブログしかないんです。
ということを言い訳に、ものすごい数書いてきたと思う。
ブログ歴=ネガティブ発信歴みたいな気がする。
書きたいなら家のノートにひっそりと書いておけばいいのに、それを人の目にふれるところに書きたい理由。
同情してもらえるからだ。
心配してもらえるからだ。
大切にしてもらえるからだ。
「大変ですね」
「そんなことがおきるなんて・・・」
「がんばってください。」
「大丈夫?応援しています。」
いや、コメントがなくてもいい。
いいね、を押されるだけでもいい。
それだけで気持ちがおさまる。
ほらね、私って大変なんだよね。
私ってかわそうじゃない?
私悪くないよね。
悲劇の主人公気分が大きく満たされる。
そのまま特に変化をすることもなく、明日もきっと同じ内容の発信を続けるだろう。
悲劇の主人公なので、幸せを一切目にしたくない
毎日同情してもらえて悲劇の主人公になってくると、人の幸せな話題に勝手に傷つくようになる。
私の場合は年齢的にも、結婚、出産、子育ての話題に一番傷ついた。
自分の人生が失敗なんじゃないか、と思えてきて、そういう幸せを目にしたくなくなる。
ひどいときは、ゴールデンウイークやお正月の長期休みの海外旅行の話題にすら傷ついた。
私はそういう休みの取れない仕事をしているので、勝手に不幸だと思った。
・・・ミュート、フォロー外す、ともだちやめる、とにかく目をそむけるようになる。
自分のネットの中には同じように不幸な人か、自分に優しくしてくれる人が残る。優しくしてくれる人には本当に迷惑な存在であった・・謝りたい。
居心地はいいが、自分の人生は変わらず、悪いことが置き続けている。
だから今日もネガティブなことを書く。
その繰り返し。
「自分の人生を取り返そう!」と思ってポジティブな発信を意識するようになった
2017年。
私は自分の人生を取り返そう、と思った。
立花岳志さんのB塾に通って、ブログを通じて自分を変えていこうと思って気分一新。
ドメインをとってこのブログをはじめた。
でも最初の頃は、というか、ついこの間まで、私はやはり8割がたブログにネガティブな発信を続けていた。
考え方はなかなか変わらなくて、仕事の不満とか、人への怒りばかりがネタになった。
しかし、Facebookで新しくつながることができた方、コミュニティで出会った方の発信にふれていくうちに変わってきた。
「ネガティブなことばかり書いていると、そういことをひきよせてしまうから、楽しいことをかくといいよ。」
とアドバイスしてもらえたことも大きかった。
そして自分の気持ちも変わろうと思っているからだろうか。
環境の変化にとびこんでいく話題、たゆまぬ努力がつづられる記事。
そもそも別世界過ぎる、社会的地位の方の世界。
新鮮でどんどん読みたくなった。
曇天の空から差し込む光のごとく、降り注ぐポジティブなパワー。
そうだ、私もそちら側に行きたい。
書くようになってきたポジティブな話題。
たくさんの人に見てほしい。
私が見上げる光の先にいる人にも、読んでもらいたい。
そんな時にふと気づいた。
あれ、もしかして私の発信って、読んでもらえてない?
これまでのネガティブ発信のツケ噴出
Facebookは友達申請は受理するが、自分のタイムラインに表示させるかさせないかをフォローで選ぶことができる。
なので、お友達としての関係は残っているけれど、一切投稿を読まない、ということができるのだ。
ネガティブ発信一辺倒だった私の記事は、読んでもらいたい人の目には触れなくなっているようだった。
もちろん、本当にそうなっているかどうかはわからない。
でも、なんとなくそうなったんじゃないかな~ということが薄々わかった。
これまでのツケが一気に噴出。
ポジティブな世界にいる人たちは、みんな自分が人生の主人公だと知っている。
主人公として、自分や周りの世界を幸せにするべく生きている人たちばかりだ。
悲劇の主人公を気取っている人に、かまっている場合ではないのだ。
最近しみじみと、昔の自分を反省しながら発信を続けている。
いつかまた、読んでもらえるように。
自分が変わっていくために。
余談 アイキャッチの写真の理由
アイキャッチに、エナジードリンク「モンスター」を選んだのにも理由がある。
もう一つの私のネガティブ要素。カフェイン中毒時代にも戻るつもりはない、という宣言である。